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哀愁漂う人たち。



今回登場するのは藤原義孝(ふじわらのよしたか)さんです。
義孝さんには拳賢(たかかた)さんという兄がおりましたが、兄弟そろって頭がよく、兄が前少将(さきのしょうしょう)と呼ばれているのに対し、義孝さんは後少将(のちのしょうしょう)と呼ばれておりました。
義孝さんには仲むつまじい恋人がおりましたが、ある時兄弟そろって病気にかかってしまいました。 当時恐れられていた病気のひとつ「天然痘」です。自らの命がそう長くないことを悟ったのでしょう。義孝さんは床の中で次のような一句を詠みました。

「君がため惜しからざりし命さへ ながくもがなと思ひけるかな」

「君と出会うためなら、この命など惜しくないと思っていました。しかし君と出会った今、こんな命でさえも永らえて欲しいと思うようになってしまいましたよ。」といった意味です。
恋人と一日でも長く一緒にいたいのに、自分の死によってもうすぐ終焉を迎える。 無念の思いが伝わってきます。結局義孝さんは21歳という若さで、兄と同じ日に死にました。

次に登場は、源実朝(みなもとのさねとも)です。
彼は源頼朝の二男で、12歳で鎌倉三代目将軍に、その後右大臣になっているため「鎌倉右大臣」と呼ばれています。
実朝が将軍になった頃は既に実権が北条氏に移り、彼はほとんど名ばかりの将軍でした。実朝はその淋しさを紛らすために蹴鞠などをして日々過ごしましたが、心の中には常に「これからの鎌倉はどうなってしまうのだろう。。。」という不安が渦巻いていました。
そんな彼が海辺で詠んだ歌が次のものです。

「世の中は常にもがもな渚こぐ あまの小舟の綱手かなしも」

「この世はいつまでも今のままであってほしいものだ。 沖の小舟を漁師が綱で手繰っている情景は、なんとなく悲しいものだなあ。」という意味でしょうか。
孤独な小舟が沖をさまよい、行方もわからずウロウロしている情景に、彼は幕府の行く末を見たのでしょう。
実朝は結局、鶴岡八幡宮の石段でおいの公暁に暗殺され、28歳という短い生涯を終えました。そして鎌倉幕府がどうなったかはみなさんご存知のとおりです(私は知らないので誰か教えて)。