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百人一首の編集長、登場。



「小倉百人一首」の作者(編集者)は、たぶん藤原定家(ていか)です。
なぜ「小倉」なのかというと、別に定家が小倉のあんぱんが好きだったからではなく、小倉山荘(別荘)の襖に百首の歌を書きつけたからだといわれています。
定家の父は俊成といって、自ら歌の流派を作ってしまうほどの大家で、歌界の神様のような人です。そんな父の影響もあって、定家は歌の実力をメキメキと上げ、ついには押しも押されぬ超有名歌人に育ったのでした。
さて、定家は天皇の勅命により、百人一首の編集をすることになりましたが、99首まで決まったものの、最後の一首が決まらずに困っていました。
その最後の一首は、定家自身のものでした。定家は傍にいた女性に「はて。どの歌がよいものか。」と尋ねたところ、その女性はすかさずこの歌を選んだのです。

「来ぬ人をまつ帆の浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ」

「こんなのがいいの?」といぶかしがる定家。しかしこの歌は、女性の間で密かに大人気を博していたのです。
「何日もあなたをお待ちしておりますが、いらっしゃらない。浜辺で夕凪に焼くという藻塩(海藻を焼いて塩を採取する技法)のように、私の身も焦がれるような思いです。」といった意味です。
「人の心を藻塩に例えるだなんて、さすが定家さま。キャ~ステキ。」ということで、定家株急騰なのでした。「そうか。じゃあそれにするわ。」ということで、最後の一首がやっと決まり、百人一首は完成したのでありました。

平安末期の優れた女流歌人といってまず名前のあがるのが、「式子(しょくし)内親王」でしょう。
式子ちゃんは賀茂神社の斎院(神に仕える未婚の皇女。ちなみに伊勢神宮の場合は「斎宮」という)として、ひっそりと暮らしていました。
彼女は俊成に歌を学び、そのうち世代交代して定家の教えを受けることになります。定家に歌を学んで実力のついてきた式子ちゃんですが、ひとつの悩みを抱えていました。定家を好きになってしまったのです。
しかし式子ちゃんは神に仕える身。「私は人を好きになってはいけないのです。。。うぅっ。」と、悲しみに暮れる日々を送ります。
そんな苦しい胸中を歌にしたのが次のものでした。

「玉の緒よ絶えなば絶えね長らえば しのぶることの弱りもぞする」

く~っ!なんて切ないのでしょう。
「私の命よ、絶えるのなら絶えてしまいなさい。このまま生き長らえば、こうして耐え忍んでいる私の心も、弱くなってしまいます。」といったところです。
定家に寄せる想いと、自分の立場。辛く悲しい板ばさみであったことでしょう。
ところで参考までに、現存する書物には「定家と式子ちゃんは付き合っていた」というゴシップが記されています。
男と女なんて、理屈じゃないよね~。やるじゃん式子。